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2012年1月

2012年1月31日 (火)

LSの講義(最終回)

  先週の金曜日の講義で今年度のLSの講義(ゼミではない一般の講義)はすべて終わりました。一年間45回の講義を終え,学生もご苦労様でした。前期だけしか受講しなかった学生もいて,最終的には30名弱が受講してくれました。今年は前年度以上に,私が話す時間が多かったと思います。数年前は,ほんとうに対話型が主で,学生にいろいろ突っ込みを入れて,ソクラティックメソッドをやっていたのですが,最近は学生の答えが的を射ることが多く,あまり突っ込みどころがなくなってきたので,より進んだ内容を講義形式で話すということになったのではないかと思っています。これは学生のレベルが格段に上がったということではなく,想像するに,私が答えてほしいと思うようなことは,私が『最新重要判例200労働法(増補版)』(弘文堂)の解説に書いてしまっている,ということも多少は影響しているかもしれません。それはそれでかまわないわけであり,もちろん講義では,常に判例を多角的に分析するという姿勢は常にとってきたつもりです。今年も,『ケースブック労働法(第6版)』(弘文堂)をベースにして質疑応答をし,『最新重要判例200労働法(増補版)』で裁判例を補充し,知識面の整理や法制度説明のときには『労働法学習帳(第2版)』(弘文堂)を使うという形で,それなりに効率的な講義ができたのではないかと思っていますが,学生の授業アンケートではどんな反応がくるでしょうか。試験問題も無事,作成し終わり,来週の期末試験の結果が楽しみです。
 来年度も基本的には同じスタイルで講義をします。来年度の私の担当は前期だけとなります(後期は櫻庭先生にお願いすることになっています)。使用する教科書も同じですが,『ケースブック労働法』は,第7版が出ます。そのゲラチェック作業も終えたところです。私は高年齢者雇用安定法の関係の裁判例を二つ(NTT東日本事件と東大出版会事件),一般的拘束力について,追加した昔の裁判例を一つ(大輝交通事件),担当しました。進化し続ける『ケースブック労働法』の第7版も楽しみにしてください。

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2012年1月30日 (月)

問題発言

 今村守之『問題発言』(新潮社)を読みました。新潮新書です。有名人の問題発言をとりあげて,その背景や影響などを書いたもので,それなりに面白かったです。ほとんどの問題発言は知っているものでしたが,前田武彦が放送業界から干された原因となる「ばんざい」発言のことなどは知りませんでした。本書で取り上げられている問題発言は,言葉だけを見ていると,どこが問題なのかわからないというものもありました。表現の自由の範囲ではないか,と思えるものもあります。一部の人が不快に思っても,そのために,発言そのものを抑制しようとすることはやり過ぎではないか,ということも考えさせられます。
 そういう点からは,石川達三の「言論・表現の自由には一歩も譲れない自由と,譲歩できる自由とがある。」という問題発言を,いま一度,考えてみる必要があります。「譲歩できる自由」があると認めるべきなのでしょうか。やはりこの発言には問題があると思われます。特定個人を誹謗・中傷する言論は別としても,人間というものを深く見つめていくと,そこには差別的なものや性的なものに,どうしてもたどり着いてしまうのです。そういうことを言語にして表現することは抑制されるべきではないと思うのです。
 もちろん,そんな難しいことを考えずに,簡単にさあっと読める本でもあります。元阪神の投手であった江本の有名な発言や沢尻エリカの発言なども出てきます。石原慎太郎の「天罰」発言もあります。 ☆☆

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2012年1月29日 (日)

学部ゼミ最終回

 先日の木曜は学部ゼミの最終回でした。最終回のテーマは「労働者の自己決定」です。拙著『雇用社会の25の疑問ー労働法再入門(第2版)』(弘文堂)の第21話と第22話を素材にしています。労働者の自己決定はどこまで許されるのか,というテーマです。議論のなかでは,労働者の自己決定を尊重すべきという立場は少数でした。具体的にみると,学生たちは,上のほうの人の自己決定と下のほうの自己決定とを区別すべきだと言いました。前者は,たとえば自分の能力に自信のある労働者が,労働契約法16条の適用は不要だが,賃金を倍にするという契約を結ぶことはできるか,割増賃金込みの月給の合意は,高額の月給であればOKか,というような話で,これについては賛成論と反対論とが分かれました。一方,後者は,本当に納得済みであれば,最低賃金を下回る合意は有効かという話で,これについては,ほとんどが反対の立場でした。いくら本人が同意をしていても,ダメなものはダメで,それは公序良俗違反の契約が無効となるのと同じようなことだという意見もありました。
 学生の考え方は,ある意味では健全であって,私がいくら自己決定の重要性を指摘し,いわゆるデロゲーションの議論に誘導をしようとしても,労働者がいったん同意をしていたとしても,最低ラインはきちんと設定して守られるようにしなければならない,というのです。労働者の自己決定などは,あてになるものではないという自己決定懐疑論が強かったです。自己決定は,結局,自己責任を正当化するだけという趣旨の意見もありました。
 労働法とパターナリズム,国家と契約というような大きな問題を意識しながら,今年度のゼミは終了しました。学生たちが,いかに私の考えに染まらなかったかを考えさせるゼミ最終回ともなりました。
 いずれにせよ,いまの4年生と3年生のゼミは,これで最後です。4年生は,この2年間でずいぶんと成長したと思います。みんな自分なりの考え方を堂々と言えるようになり,たくましくなりました。そして,世の中の現象を多角的に眺める力を身につけてくれました。いろんな利害が対立するなかで,どういう政策を進めていくのがよいかを考える作業,あるいは,単純な原理主義的な行動はダメで,対立する意見にも,常にそれなりの理があるということを意識しながら,自分の考え方を固めていくという作業を,ゼミではずっとやってきたのです。こうした訓練が彼ら,彼女らの将来に役立ってくれればと思っています。そして,みんなが,それぞれの道で立派に活躍していくことを,心より祈っています。
 ゼミ後は,飲み会でしたが,4年生のみんながほんとうに仲が良く,そして楽しそうに飲んでいる姿を見ることができて嬉しかったです。私は,いつものように,恋の相談コーナーのようなことになってしまい,学生にアモーレを語っているだけでしたが……

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2012年1月28日 (土)

Io sono amore

 このタイトルが,どうして「ミラノ,愛に生きる」になるのかと思いますが,まあ内容を見れ ば,そういう映画ではあります。なお,英語にすれば,「I am love」です。  ロシア人であるエンマは,イタリアの実業家レッキ家の息子と結婚して,2男1女をもうけます 。長男のエドアルドは,祖父から,父とともに後継者として指名されます。しかし,どうも父と 息子はあまり仲が良さそうではありませんし,父は息子と共同で後継者に指名されたことに,納得できていないようです。娘のエリザベッタ(英語のエリザベス。略してイタリアでは,ベッタと呼ばれています)は,ロンドンに行っていましたが,レズビアンであることをカミングアウトします。母であるエンマは,子供たちがそれぞれに自立していくなか,あるとき,偶然に出会ったエドアルドの友人である料理人アントニオに惹かれてしまいます。アントニオは,父に反発して,サンレモからさらに自動車で何時間もかかるところでレストランを開こうとします。大自然にあふれた素晴らしい場所です。サンレモで偶然にアントニオに出会ったエンマは,アントニオに誘われて,その場所に行き,そこで,アントニオと結ばれてしまいます。このセックスシーンは,美しもあり,またエロさも満点です。息子の親友と不倫関係に陥ったエンマは,もう止まりません。  エドアルドの父は,その父から受けついだ会社を売却します。エドアルドは売却に反対でした が,押し切られます。その後,レッキ家で,売却先のイギリス企業(交渉相手はインド系アメリカ人です)を招いたパーティが開かれます。そこで英語がわからないエンマは,疎外感を感じます。そうしたなか,その日のシェフであったアントニオに会いに行き,キスをします。その後,ディナーが開かれますが,そこでエンマの作る手料理でエドアルドがお気に入りであったスープが出てきます。ロシア料理です。エドアルドは,アントニオに行ったときに,母の髪のようなものが落ちていたことを思い出します。エンマは,アントニオに髪を切ってもらい,ショートカットになっていたのです。エドアルドは気づきます。アントニオとエンマがただならぬ関係になっていたことを。その後,プ ールサイドでエドアルドとエンマがその件で話し合うなか,言い争いとなり,悲劇が起きます。エドアルドは頭を打って死んでしまうのです。一族は悲しみに沈みます。それでも,エンマはアントニオとの愛を貫徹します。すべてを捨てて。  ミラノのシーンがもっと出てくるのかと思いましたが,そうでもなく,後味がよくありません でした。エンマはロシア人,またレッキ家のお手伝いは,はっきりしませんが南米系の人のよう でした。ちょっとインデアンに関するセリフもあり,さらにユダヤ人を搾取してレッキ家がのし あがったというセリフもあって,どことなく,ある種の主張があるのかなという気もしましたが ,考えすぎかもしれません。   ☆☆

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2012年1月27日 (金)

不当労働行為と除斥期間

 先日,近畿ブロック労働委員会公益委員連絡会議が滋賀で開催されて私も出席し,派遣先の労組法上の使用者性をめぐる議題について意見表明をしました。まだ十分に熟していない見解を表明したので,今後またゆっくりと書いて,論文にまとめたいと思います。
 この日のテーマのなかで面白かったのは,賞与における組合員差別の事例で,労働委員会にあっせんを申請し,あっせんを進めていたが,それが不調に終わり,不当労働行為の救済申立をしたところ,1年の除斥期間(労組法27条2項)にかかったときに,申立を却下すべきかという論点です(京都府労働委員会から議題の提案がありました)。あっせんがそんなに長引くということは普通はないので,あまりありえない事例ですが,理論的には興味深いところです。
 労働関係調整法上の争議調整と不当労働行為の審査手続は,手続的に連関しているわけではないので,一方の手続が進んでいるからといって,他方の手続の除斥期間に影響することはないというのが普通の考え方かもしれません。しかし,同じ労働委員会にかかっている以上は,当事者としては,すでに同じところに解決を求めているのであるから,権利の行使を漫然と怠っていたとはいえないでしょう。また,紛争があっせんで解決するのは,本来望ましいはずで,その手続が進められている間に,不当労働行為の除斥期間にかかってしまうという事態は避けるべきではないかと思われます。また,あっせんによる平和的な解決を模索している当事者に,不当労働行為の救済申立をしておくことを求めるのは,あっせんの成立に良くない影響を及ぼしてしまう可能性があり妥当とは言えないでしょう。
 実際,たとえば個別労働関係紛争解決促進法16条では,あっせんと時効の中断に関する規定があり,あっせんをしていることが当事者の不利にならないように配慮されています。労働審判法22条1項,民事調停法19条などにも関連する規定があります。
 不当労働行為事件においても,同じ労働委員会にあっせん申請をしていた時点で,除斥期間の進行を止めるというような解釈は無理でしょうか。それでは除斥期間でなくなるということになりそうですが,そこは労組法や労調法の趣旨もふまえて弾力的な解釈や運用をする余地はあるのではないか,と思います。これは,法の欠缺と言えるかもしれませんが,解釈論で埋められるのか,それとも立法論にすぎないのかは,これから議論していく必要がありそうです。

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2012年1月26日 (木)

イタリア再建のための政労使三者間交渉

 イタリアの労働組合は,GGIL,CISL,UILが近年になく統一行動をして,Monti 首相と闘おうとしています。闘う相手は,経済界というよりも,まずは政府のようです。Monti 首相は,あのBiagi が命を落とすきっかけとなった,労働者憲章法18条(不当解雇に対して,労働者に原職復帰か金銭解決かを選択させることを認めている規定)に手を付けることも辞さないと宣言していて,不穏な雰囲気が漂っています。18条自体は解雇を制限する規定ではないのですが,効果面で労働者に有利であることから,労働市場の硬直化を生んでいると考えられているわけです。
 とはいえ,1月23日から始まった政労使の協議では,政府からの提案には労働者憲章法18条の問題は含まれていませんでした。これに手を付けようとすると,おさまるものも,おさまらなくなってしまうからでしょう。ということで,政府は,所得保障金庫(CIG)というイタリア独自の部分失業制度についての大幅な見直しを提案してきました。政府は,金銭的にサポートするのは,短期的に回復可能な事業に従事する労働者だけであり,それ以外は,むしろ解雇された者に対する金銭的なサポートに力点を置くという方針のようです。
 イタリアの労働組合も,生産性や競争力といった点の重要性については異論はないようです。政府はそのための労働市場の柔軟化や効率化を考えているようなのですが,はたしてうまくいくかどうか。このブログでも交渉の推移を見守っていきたいと思います。

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2012年1月25日 (水)

歪笑小説

 東野圭吾『歪笑小説』(集英社文庫)を読みました。ミステリーではなく,出版業界の裏話をネタにした短編集です。いつもの東野作品を期待すると肩すかしを食った気分になるでしょうが,暇つぶしにはいいかもしれません。小説家ってたいへんだな,出版社ってたいへんだな,という感じですかね。
 ところで,最近では芥川賞作家の田中慎弥氏と東京都の石原知事とのやりとりが話題になっています。この田中という作家,相当の変人のようですが,それくらいでなければ文学はやれないのでしょうね。おそらく,独特の感性があって,それが周りを寄せ付けないのかもしれません。お母さんとずっと二人だけなんていうのは,ちょっと気持ち悪い感じもあるのですが,二人にとっては理想的な関係なのでしょうし,私にはその良さがちょっと理解できる感じもするのです。そのうち,彼の作品を一度,読んでみて,このブログでも紹介することにします。そういえば,いま続編が出ていますが,「続Always三丁目の夕日」でも,芥川賞選考の最終候補に残った茶川が主人公となっています。なんだか見えない未来に向けて苦労しているインテリの若者というイメージに小説家はぴったりなのでしょうね。小雪が扮する恋人が最後に茶川のところに帰ってくるのも,本の力でした。モノカキっていいな,って感じです。前記の東野作品では,新人賞をとったことのある若い小説家と結婚したいと一人娘が言いだして,父が反対するシーンが出てきます。娘をもつ父としては,「モノカキ」なんかに娘を嫁にやれないということですね。彼を支えていこうとして,父に反発する娘と,そんな娘を暖かく見守る母という流れに「アモーレ」を強く感じて,こういうのに私はすぐに感動してしまう悪い癖があります。さて,娘の彼は,文学賞の最終候補に残りますが落選します。でも,もっと大きなものに挑戦しようとする彼と,その人生に賭けようとする娘。なんだかんだ言ってやっぱり娘が大事な父は,知らぬ間に,彼の応援者になっていました。こういうオチになると,普通の良い話にすぎないじゃないか,って言いたくなりますが……
 私自身は,この業界に結構関心があるので,楽しめましたが,あまりにも軽すぎるので,☆☆

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2012年1月24日 (火)

LSのゼミ(最終回)

 本日の授業で,今期のLSのゼミは終了しました。久しぶりのLSのゼミでしたが,なかなかハードでした。学期の途中から,刊行されたばかりの『労働法演習ノート』(弘文堂)を教材に使って授業をしました。当初は,解答例のない,関連問題を中心に担当者を決めて報告させていましたが,途中から,解答例を気にしないで解答を書くように指示し,本問を中心に学生にやらせてみるようにしました。解答例は,実際に使ってみると,いろいろ改善点が出てきて,学生を使って,本のブラッシュアップのための作業をさせてもらったようなところもあります。それにしても自分たちで作っておいて言うのはおかしいのですが,この本のストーリーには,いろいろな要素が入っていて,設問などをいろいろ変えていくと,幅広い議論が可能となるなど,なかなか深みのあるものになっていると思いました。
 授業では,解答例ではこう書いてあるけれど,ほんとうにそれでよいだろうか,というような議論を通して,労働法の議論の深みと難しさを学生にわかってもらうことも試みました。たとえば,本日やった「労働組合」のところでは,除名が無効であればユニオン・ショップ解雇は無効となり,その場合には,使用者の帰責事由があることから(民法536条2項),解雇期間の賃金請求ができると解答例には書いていて,学生もそれでよしとしていますが,ほんとうにそれでよいだろうか,というような感じです。結論はそれでよいとしても,違う意見がないかとを考えさせることで,不当解雇と賃金の関係を再確認することができ,より深い理解に到達できるのです。
 こういうように一通り労働法を学んだ学生を集めて,事例を通して,学んだ知識の具体的な活用方法を勉強するというのは,法学のすぐれた学習方法だと思います。『労働法演習ノート』には前述のように改善すべき点はたくさんあるのですが,とりあえず実際に授業で使ってみて,確かな手応えを感じました。もちろん,これは教師の独りよがりにすぎず,学生がどう思ってくれているかは,よくわからないのですが……

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2012年1月23日 (月)

浅田真央

 スケートの話ではありません。浅田真央の本が,刊行直前でお蔵入りになったそうです。報道によると,著者が,本の宣伝方法に文句をつけたということのようです。要するに,母の死を宣伝道具に使われたということで,不信感をもったということです。事務所サイドではOKを出していたという情報もあり,どっちに非があるのか,真相はわかりません。いずれにせよ出版社のダメージは,イメージ面でも刊行費用の点でも大きいでしょう。
 私の書くような本は,学術書の場合は別として,一般書については,編集者が何らかの形で私にコンタクトをし,企画を詰めて,面白そうだということになるとゴーサインを出し,そして編集者がその出版社での編集会議とかで企画を了承してもらい,会社によっては社長決裁も必要となるようですが,それを経てから,本格的な執筆開始という段取りになります(連載を単行本化する場合には,すでに原稿があるので,その後のプロセスは短縮化されます)。書き下ろしの場合には,事前にサンプル原稿を書いて,編集会議の参考にしてもらうということもあります。編集者レベルではノリノリだったのに,編集会議で通らなかったためにお蔵入りになった企画も,過去に一つあります。あの編集者は,どうしているでしょうかね。
 そういうことをして,いよいよ本が完成しそうになったときに,出てくる問題は,本のタイトルです。本のタイトルは初めに決めている場合もありますが,やはり原稿が出来上がって全体を見てから決めるというのが普通です。学術書であるなら,『労働条件変更法理の再構成』などという味もそっけもないものとなりがちですが,一般書となると,そうもいきません。
 すでにブログでも書いたので,あまりしつこく書くと申し訳ないのですが,営業が強いところのタイトル設定は難航します。本が売れなきゃ仕方がないということで,編集者と営業サイドの力関係が後者のほうが圧倒的に強いというところもあります。私たちは編集者しか付き合いがないので,営業に直接,希望を伝えることはできないのですが,ここで意思疎通がうまくいかないと,今回の浅田真央のようなことが起きるのかもしれません。
 著者としては,自分の本は使い捨ての商品のようではなく,一つひとつが可愛い我が子です。末永く自分の作品として大事にしたいと思っているのです。だから少なくとも売れるというだけで,タイトルを決められるのは困るのです。あるいは内容に近いタイトルであっても,著者の思いがまったく反映されていないような形で宣伝されるとイヤなものです。もちろん出版社も儲からない本を出す意味はないので,そこは著者も妥協するのですが,その妥協ラインが問題となるのです。
 私は,ある本では,そのタイトルにするのなら本を出さないという,浅田真央的なことを言ったこともありました。また本ではありませんが,私のために設定してくれた講演なのですが,タイトルが気に入らず,どうしても主催者側が変えないといったので引き受けなかったこともありました。たかが一研究者ですが,そのあたりのプライドはもって仕事をしているつもりです。どのあたりが,プライドの限界なのか,たぶん業界が違う人はわかりにくいかもしれませんし,個人差もあるでしょう。このあたりについては,日頃から法律系の本を出していて付き合いのある会社のほうが,私たちの感覚をよく知っていて,落としどころをつかみやすいのでしょうね。
 真央ちゃんも,せっかくの本が出なくなって可哀想です。経緯はどうあれ,人の死を商売の道具にするかのごとき行動は不謹慎ですし,やるべきことではないでしょう。本は売れたほうがいいでしょうが,売れればよいというものではありません。本は,やはり普通の商品とは違うのです。

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2012年1月22日 (日)

政治家の殺し方

 中田宏『政治家の殺し方』(幻冬舎)を読みました。いつからかあまり見なくなったと思ったら,こんな本を書いていましたね。私と同じ世代の政治家ですが,衆議院議員をやったり,横浜市長をやったりと,実績は十分です。スキャンダルにまみれてしまった汚名をはらすという思いがあったのでしょう。タイトルはドキッとするもので,読んでみると,確かに,はめられたんだなというのがよくわかりますし,地方政治の闇もわかります。ただ,どうせ書くのなら,もっと地方の利権構造について突っ込んだ分析というか,市長経験者ならではの深い話があればなあと思います。そういうのがないので,軽いタッチの本というだけになってしまっている感がありますね。まあ,公人をほんとうにやっつけたかったから,いくらでもやり方があるということがわかり背筋が寒くなるようなところもあり,そこはよく伝わってきましたが。著者にはよく頑張ったと言いたいところですが,政敵の相手を責めないなど,ちょっと立派すぎて,かえって鼻につくところもあります。自分の悪いところなども正直に認めたり,現在の経済状況を開示したり,家族愛を書いたり,こうなると,ちょっと政治家の宣伝などかなという気もしてきました。本人がどこまでそういうつもりで書いたのかわかりませんが,そう思わせてしまうようなところが,この本の読後感を悪くしています。 ☆

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2012年1月21日 (土)

吉原御免状

 隆慶一郎『吉原御免状』(新潮文庫)を読みました。面白かったですね。後水尾天皇の御落胤の剣士の松永誠一郎が主人公です。二代将軍,徳川秀忠が皇族と姻戚関係になりたいという野望から,娘を後水尾天皇に嫁がせていましたが,天皇が側室に生ませた子は柳生氏に頼んで次々と暗殺していました。側室の子である誠一郎も暗殺されそうになったが,ぎりぎりのところを宮本武蔵に助けられます。肥後の山奥で武蔵に鍛えられた誠一郎は,25歳になれば吉原に行けと命じられ,そして江戸に行きます。そのときから誠一郎は,柳生に命を狙われるようになります。吉原対柳生はなぜ起きたのか。そこには将軍秀忠の意向が働いています。「吉原御免状」の取り合いなのです。別の名を「神君御免状」。神君とは,家康のことです。家康が,吉原に与えた免状とは何であったのか。そこに書かれていた言葉は何か。傀儡子(くぐつ)の苦難の歴史も取り入れながら,差別から無縁の自由の地であるという視点で吉原の誕生を描くものです。家康は関ヶ原の戦いで殺されており,その後の家康は実は影武者であったとする説(この小説では重要なポイントとなります)や家康の側近の天海は明智光秀であったとする説も出てきて,びっくりします。 また,この本でも,人間の残虐さと優しさというものを考えさせられますし,男女の性と生の問題も深く描かれています。まだ読んだことのない人には,ぜひお薦めしたいです。☆☆☆☆

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2012年1月20日 (金)

昨日の労働法ゼミ

昨日の労働法ゼミ(学部)は,拙著『雇用社会の25の疑問(第2版)』(2010年,弘文堂)の第2章「退職金は,退職後の生活保障としてあてにできるものか」を素材にして,退職金について議論しました。過去のゼミで,このテーマを扱ったことはありませんでした。ゼミで討議するに適したテーマとは思わなかったからです。しかし,一度やってみようと思い,今回はテーマに指定しました。
 退職金というものは,賃金か福利厚生かというのが,実は重要な視点で,退職金の本質に食い込んでいくためには,労働基準法11条の賃金に該当するというところで終わってしまってはいけないところがあります。議論でも,退職金に全額払いの原則や通貨払いの原則(労働基準法24条)を適用することは妥当かという問題意識が出てきており,私も退職金の11条該当性そのものが議論の余地になるような気もしてきました。
 退職金を実質的に賃金とするのなら,これを後から払うことにし,懲戒解雇のときには払わないとするのは,なんだか陰険なやり方ではないかという批判をする学生がいました。懲戒解雇であろうがなかろうが,企業はきちんと退職金を支払うべきであり,損害があれば,会社のほうでそれを立証して回収すべきであるという議論も有力でした。いったん従業員を雇った以上,懲戒解雇になろうとも,退職後の生活保障はまずは考えるべきという意見もありました。一方,懲戒解雇のときにも退職金がもらえるというのは違和感があるという,ある意味では至極当然の批判も,もちろん少なからずありました。
 ここでは,退職金のもつ,賃金の後払い的な機能,功労報償的な機能,生活保障的な機能のどこに着目するかによって,主張が変わってきているので面白かったです。
 懲戒解雇イコール退職不支給という定式に疑問を投げかけて,割合的な支払を認めるべきという意見もいくつかありました。小田急電鉄事件がモデルとなっているのですが,あの事件では先例があって3割という割合的支払が命じられたのであって,何もとっかりとなる基準なしに,裁判官に割合的認定の権限を認めることには,法律論としては問題があるのでは,というコメントをしておきました。
 退職金についての法的な縛りをきつくすると,企業は退職金制度を設けるインセンティブがなくなってしまいます。これは経済学的思考です。一方,いったん設けた以上は,きちんと支払うべきであるという意見も,何となくわからないではありません。懲戒解雇の場合は不支給と書いてあるんだから仕方ないだろうという主張は,ひょっとすると必ずしも多くの従業員には響かないのかもしれません。日本が,どこまで契約社会か,ということにもつながる話です。日本的法的思考とは何かということを考えさせますね。

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2012年1月19日 (木)

レーガと大阪維新の会

 イタリアにLega Nord(北部同盟)という政党があります。イタリア北部の独立を叫ぶ政党であり,最初は泡沫政党だと見られていたのですが,20年前に一気に国政選挙で議員を当選させ,それから今日までずっと有力政党でいます。考えてみると驚くべきことです。イタリアの知識人からは蛇蝎のごとく嫌われていた政党がこんなに長く命脈を保つとは誰も予想していなかったのではないでしょうか。イタリアは連立政権なのですが共産党はなくなり,キリスト教民主党も姿を消して,中道右派と中道左派の戦いとなったということも,レーガ・ノルドに有利に働いたのかもしれません。中道右派の要にいるのが北部同盟であり,ベルルスコーニ前首相も,レーガ・ノルドの力がなければ政権を維持できなかったわけです。
 レーガ・ノルドのリーダーは,Umberto Bossi です。まさにカリスマ的なリーダーであり,過激な主張をするということで,どことなく,大阪維新の会と似ているなと思いました。この政治グループは,大阪の独立を主張しているわけではないでしょうが,地域を意識した主張,そしてカリスマ的なリーダーがいるという点では,どことなくムードがレーガ・ノルドに似ているのです。
 レーガ・ノルドの支持者が衰えないのは,対南部,対移民というような核となる明確な政策があるからでしょう。その政策は不快なものなのですが,それでもぶれないことが長続きしているのかもしれません。大阪維新の会のことを,よく知っているわけではありませんが,さて20年後にはどうなっているでしょうか。

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2012年1月18日 (水)

労働組合法の課題

 労務事情で連載してきた「労働法の歴史から“いま”を知る」も,15回連載の最終回となりました。最後は労働組合法です。この連載では,最後にいつも,その法律の今後の題というものを書いています。では,労働組合法の今後の課題は,何でしょうか。労働組合そのものの機能低下があるなかでの労働組合法とは何か,という大きな問題はもちろんあると思います。また,従業員代表の法制化(私はやや孤立無援となりつつありますが,反対論者です。詳細は,『労働者代表法制に関する研究』(2007年,有斐閣)を参照)をめぐる議論が再び高まり,労働者代表法制全体での労働組合法の意味という大きな視点も重要です。とはいえ,個人的にいま最も関心のあるのが不当労働行為制度の将来が大きな問題だと思います(以下のことは個人的な意見であり,兵庫県労働委員会の立場とは全く関係ないというのは,いつものとおりです)。
 いつも書いていることですが,個別労働紛争の扱い,さらに実質個別紛争の扱いが問題となるでしょう。前者については,労働委員会の機能を強化するために,もっと労働委員会もウイングを広げようという議論があります。実際,個別労働紛争を扱っている労働委員会が現在ではほとんどなのですが,そのメリットとデメリットとを考える必要があると思っています。労働委員会という組織の存続のためには,仕事が多いほうがよいということになるでしょう。しかし,現在,労働審判や都道府県労働局での紛争解決が整備されてきているなかで,労働委員会が個別労働紛争を取り扱う意味については,冷静に考える必要があると思います。解決手段は多様なほうがよいのか,それともそこに非効率が生まれていないのか。法社会学者とも組んだ実証的な研究が必要ではないかと思います。各労働委員会がどのような体制で個別労働紛争に臨んでいるのかよくわかりませんが,不当労働行為事件などについても,かなり高度の法的な知識が必要となっているなか,さらに個別労働紛争となると,膨大な労働法に関する知識が必要となり,そのどちらについても専門的な紛争処理機能を発揮するというのは容易なことではないのでは,というのが率直な印象です。もちろん労働法の知識がなくても,あっせんはできるということかもしれませんが,この点について私は懐疑的です。
 実質個別紛争の点も,今の話と関係しています。こちらは主として理論的な問題ですが,実質個別紛争を労働委員会の不当労働行為審査手続で扱うことの適否です。これもすでにこのブログで書いているところですが,労働委員会の目的を集団的労使紛争の解決を通した正常な労使関係秩序の維持にあるというように考えると,実質個別紛争における要求事項を義務的団交事項ととらえ,不当労働行為の問題とすることには疑問が出てきます。個別的事項には労働協約の規範的効力が発生するのか,という論点もあります。もっとも,これについては,そのように限定的に解する必要はないのであり,労働委員会のもつ能力を閉じこめてしまうことは,労働者の保護のためにならないという意見もあると思います。ひょっとしたら,私は労働審判などの現行の個別労働紛争の解決システムを過剰に評価しているのかもしれません。
 労務事情での原稿では,論点の指摘だけで,突っ込んだ検討はもちろんしませんが,個人的には,これから数年かけて取り組むべき最大の理論的課題と思っています。

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2012年1月17日 (火)

「ジェノサイド」の続き

 二日前に紹介した「ジェノサイド」の感想の続きです。塩野七生の『ローマ人の物語』もそうですが,あれも大部分は人間が殺戮しあった話でした。ローマ側からみれば,敵将のクビをとった皇帝は英雄で,凱旋パレードでみんなが讃えるわけですが,たくさん人殺しを命じた人を讃えるのですから,よく考えたら恐ろしいことです。戦争になると人を殺してよいというのは,今日の通常の理性の範囲を超えています。
 食料がなくなると,それを求めて移動し,食料のあるところに住んでいる人を殺戮して場所を奪う,ゲルマン人の移動は,そういうものでした。ゲルマンだけではなく,人類はみんなそういうことをしてきたのでしょう。日本人だって,中国大陸あるいは南方から,そういうことをしてきて,原住民を追い出したのでしょう。
 気候の変化や大量の消費などが他所への関心を生み,そしてそこに住んでいる平和な民の殺戮につながるのです。殺戮を経験すると,復讐心が生まれ,別の殺戮を生みます。そうした殺戮の歴史がDNAに刻み込まれてきたために,いまだに何かあれば殺戮につながるのです。食料のためならまだしも,それが自分の利権のために,そして合法性の仮面をもって行われる殺戮となると,背筋が寒くなります。食欲を満たされた人間は,次は金銭欲のために,同じような殺戮を行うのでしょう。石油のための殺人は,安全保障のためといいながら,莫大な利権を得るという経済的な目的があり,それこそが主なのでしょう。
 理性的な人間は,人を殺すのをためらいます。その理性をくもらせるのが距離です。物理的な距離だけでなく,心理的な距離もあります。アフリカでの殺戮に私たちが鈍感なのは,そのせいでしょう。白人が黒人を奴隷にできたのは,外観の違いなどから,心理的な距離があるからでしょう。異教徒に寛容になれないのも,やはり心理的な距離があるからでしょう。人が互いに殺し合うのをやめて,理性的な存在になるためには,いろんな意味での距離を縮めるということかもしれません。感情をともにするという「シンパシー」,共感こそ,私たちにとって大事なことかもしれません。共感を重視する「アモーレ」こそ,私たち人類にとって大事なことと再確認したいですね。

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2012年1月16日 (月)

試験監督

 昨日,試験監督のことを書いていたのですが,今朝の新聞を見ていると,センター試験の事態がたいへんなことになっているので,誤解をまねていてはいけないと思い,少しだけ書き直すことにしました。とにかく,受験生に不利益がなければよいことを祈っています。

今回のことは誰の責任であるか,よくわからないのですが,一般的な試験監督の話として,監督をやる側の立場から一言。以前に,非常勤で行っている女子大の授業で,正社員の兼業として認めてもよい仕事と認めてはいけない仕事について挙げよという課題を出したことがあります。後者の仕事としては,風俗産業での仕事とか,肉体労働とか,そういうのが挙げられていたのですが,前者の仕事の例として,試験監督というのを挙げる生徒がいて,ずっこけそうになったことがあります。彼女たちにとっては,試験監督している先生って暇そうで楽な仕事だと思っているようです(というか試験監督は兼業とかいうものの対象にならないので,まったく頓珍漢なのですが)。学部の定期テストくらいなら,いろんな先生がいますから,暇そうにしている先生もいるかもしれません。しかし,入学試験となると,話は全然違います。思わず,試験監督は,神経も使うし,肉体的にもきついと力説してしまったことがあります。とりわけセンター試験のような全国統一の試験では,ぴりっと張り詰めて,試験監督をしたものです。ミスは許されないからです。とはいえミスを完全に防ぐことは不可能なことも事実です。今回は私は関係していないので,原因はよくわかりませんが,一般論としては,ミスがありうることを前提に,二重,三重の防御をするしかないのかもしれません。そういうことはされているとは思いますが・・・。

このように書いていて,なんとなく以前にセンター試験のことを書いたことがあったような気がして,検索してみると,2年前の今頃,センター試験のことを書いていたブログがありました。そこに,熱が37度に下がったということを書いていました。実は,今年も一昨日から体調を崩していたのです。その前にも,1月に体調を崩して,かなり痩せたことがありました。どうも1月は体調がおかしくなりやすい時期のようです。年末年始の暴飲暴食のツケが出やすい時期なのでしょうかね。幸い,夜になって回復しましたが,昨日は,半日かけて,家でとても気の重い神経を使う仕事を一つ片付けました。

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2012年1月15日 (日)

ジェノサイド

 高野和明『ジェノサイド』(角川書店)を読みました。大量殺戮をしあいながら発展してきた人類。この世界の覇者である人類の凶暴性や残虐性を痛烈に批判するメッセージのある小説です。スケールの大きい話です。舞台は,アフリカのコンゴ。そこで,どうも人類よりも進化した新人類と考えられる生物が突然変異で現れました。人類もネアンデルタール人の突然変異で誕生したのであり,人類から新たな突然変異で新たな人類が生まれてもおかしくはありません。その新人類を抹殺しようとするアメリカ人とそれを助けようとする者との戦いです。
 人間はなんて愚かなのだろうと考えさせられます。著者は,「ヒトという動物は,原初的な欲求を知性によって装飾し,隠蔽し,自己正当化を図ろうとする欺瞞に満ちた存在なのだ」と書きます。ジェノサイドは,ルワンダなどのアフリカの内戦,ヒットラーのホロコースト,イラク戦争でのアメリカ大統領によるイラク人の大量殺戮,ヨーロッパ人によるアフリカやアメリカやオセアニアでの原住民の抹殺,日本人の南京大虐殺など,愚行は歴史は繰り返されてきています。チンギス・ハンは,殺戮と略奪と強姦に明け暮れて,現在で3200万人の子孫を残しているのです。私たちは,そういった野蛮なヒトの遺伝子を受け継いでいるのです。
 この本では,救いも残しています。難病で苦しむ子を救うために自分の生命を危険にさらしてもがんばる日本人と韓国人の話です。善良な国民の例として日本人が出てくるので,私たちにとっては,気持ちのよいところでもあります。もちろん日本人にとって不快となるようなことも書かれていて,歴史観に問題があるなどといった批判がされているようですが,私は著者が偏狭なナショナリズムなどをもたずに公正に書こうとしたと思えたので(その内容を必ずしも支持するわけではありませんが),私はイヤな感じはしませんでした。まあ韓国びいきなのだな,という印象はありましたが。
 虐殺シーンの描写はリアルでちょっと気分が悪くなるところもありますが,このスケールの大きい小説を,ぜひみなさんにも読んでもらいたいです。 ☆☆☆☆

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2012年1月14日 (土)

法経連携専門教育プログラムのシンポジウム

 昨日,神戸大学で法学部と経済学部で連携した教育プログラムを展開しているのですが,このプログラムの紹介の意味もかねたシンポジウムが開かれました。川口大司先生(一橋大学大学院経済学研究科准教)が「法と経済で読み解く日本型雇用慣行」というテーマで,中山龍太郎先生(弁護士・西村あさひ法律事務所)が「企業法務に求められる経済学的センス」というテーマで話してくださいました。川口先生のほうは,終身雇用を中心とする日本的な雇用慣行について,企業特殊熟練の蓄積という観点からみて経済的合理性があり,契約の不完備性からくるホールドアップ問題を解決するために解雇法制などの労働法のルールが関係しているというお話でした。そして,労働者に求められる技能が企業特殊的なものでなくなるなど経済環境が変わると,新たな法的ルールが求められるようになり,また雇用慣行も変わってくるであろうという話でした。中山先生のお話は,企業価値をどう測るかという問題を例にとりながら,裁判所での法的な解決よりは,むしろ市場を通して決めたほうがよいこともあるという話や,また市場には限界があり,情報の非対称性があるときには市場の失敗となる(アカロフのレモンの例)が,それを回避するために,中古車(レモン)の例でいうと,瑕疵担保責任のような保証,保険などの手法があるということ,一見,売り主にとって不利な瑕疵担保条項も,情報の非対称性の問題を回避して取引を実現するために必要となり,結局は売り主にとっても利益となる,というようなことなど,経済的センスを取り入れて実務をすることの重要性についての話をしていただきました。両先生のお話は,具体的な事例でご説明いただきましたが,法と経済の関係,市場の意義とその限界など,本質的な重要問題にまで関係しているものでした。学生も熱心に聴いてくれており,貴重な経験になったと思います。

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2012年1月13日 (金)

本日の労働法ゼミ(学部)

 今年最初の労働法ゼミです。何人か欠席者がいましたが,ゼミ生の元気な顔を見ることができて一安心です。4年生は,あと3回のゼミですね。3年生は,もう1年ありますが,先輩たちと一緒のゼミの期間は残り少なくなりました。
 今回のテーマは,近年は,毎年とりあげている「キャリア権」です。拙著『雇用社会の25の疑問』の第23話,『キーワードからみた労働法』の第17話が素材です。
 たしか昨年もそうだったと思うのですが,キャリア権についての学生の反応は,あまり良いものではありません。諏訪康雄先生,高井伸夫先生たちのやっているキャリア権研究会の末席を汚している私としては,ちょっと残念なことです。上記の拙稿は,キャリア権をわかりやすく説明しているつもりなのですが,学生たちに,いまひとつ,この権利のもつ学説史的な意義や実務へのインパクトが十分に理解してもらえない感じでした。彼ら,彼女らにとってのキャリアとは,正社員や公務員としてのキャリアであり,終身雇用のなかで,労働者のキャリアを権利として構成することへの違和感があるようです。労働者として有難い権利では?,と問うても,経営者の立場からすると,これを労働者の権利として認めなければならないというのは厳しいと考えているようです。私は,キャリア権の保障は,会社にも労働者にも利益となるウィン・ウィンの構造をもっているのでは?,と言ってみたのですが,学生たちは十分に納得してくれているかどうかは疑問でした。実は学生たちの反応は,このキャリア権を世に広めていくうえでの難しさを示してはいるのです。キャリア権を支えるのは誰か,という問題です。政府が支えるというのは比較的問題がないのですが,会社に支えさせるということの理論的正当性,また実際上の説得力というのが,キャリア権構想の実現のためのポイントとなるでしょう。
 ところで,3年生はシューカツが始まっていますが,学生の中から,「法学部に入ったことを後悔している」という発言が出てきたことに,ちょっとショックを受けました。自分の具体的な進路を考えたときに,法学部に入っていたということが何のメリットにもなっていないのに,いまさらながら気づいたというのです。企業が自分に求めているのは,法学部で何を学んだかではない,というのです。それだったら,経営学部とか,より社会に出たときに役立ちそうな学部に入っていたほうがよかった,ということのようです。高校段階で,将来の就職のことも視野に入れた進路指導をしてほしかったということのようです。
 もしかしたら私の誤解かもしれないのですが,親,本人,高校の教員の方などは,法学部生の進路として,法曹や公務員を漠然とイメージしてはいないでしょうか。現実には,法曹になれるのは一握りで,公務員になる者は神大などではある程度はいますが,決してそれも簡単なことではありません。ダブルスクールの世界になります。そして民間企業に行くと,営業の仕事からやるということがほとんどです。こういう情報をもって,法学部に入るかどうかの選択をすることが必要なのでしょうね。
 私は,学生には,この4年間の過ごし方が重要だと言っています。自分の基礎力を高めるための時間がふんだんにあるからです。もっとも私は低学年の授業を担当していないので,ゼミ生に会ったときも,すでに彼らは3年生になっています。ちょっと遅いのかもしれませんね。実は来学期,初めて1年生ゼミというのを担当します。よく考えると,神戸大学に来てからずいぶんと経ちますが,1年生相手という授業をしたことがなかったのです。来年度は,1年生相手に職業意識をたたみこむような授業ができればと思っています。
 最後に,ゼミでは,それでも法学を学ぶ意味はあるよ,という話をしました。法学教育では,暗黙のうちに,裁判というものをイメージして,関係する当事者が,論理的に意見を戦わしあいながら,一定の結論に向かっていくということをやっています。こういう一種の弁証法的なアプローチというのは,法学教育を受けたものが自然と身につけているはずなのです。原理主義的な行動や他人の意見を省みないで直進する行動というのは,法学的思考と相容れません。こうした法学的な姿勢は企業社会においても重要な能力だと思います。
 また,法学は,社会を過去の人類の経験に基づいて引き継がれている規範の観点からながめるものです。たとえば,犯行を犯したことが明らかな人でも,必ず刑事裁判にかけて,被告人としての権利を保障します。こういう手続的な正義というのは,人類が過去,冤罪をたくさん生んできたという反省に基づき制度化されたものです。法学的バックグラウンドがなければ,目先の現象に目がくらんで短絡的な行動を支持することになりかねません。こういう歴史に根ざした正義論や規範論をもって社会をみることができるという能力も,企業に入って大事なものだと思います。
 法学部を学んだ者は,胸を張って,社会人になってよいのです。 

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2012年1月12日 (木)

成人式

 いつからか成人式は1月15日にやらなくなったわけで,私たちの世代は1月9日の成人式というと違和感がありますね。第2月曜日が成人の日となったからで,この祝日は,お正月休みと近すぎて,あまり有難くないです。月曜に講義がある私は,10日を過ぎても,今年の講義がまだ始まっていません。世間では冬休みが短かったのですが,私は講義という面では長い冬休みとなりました(逆に4日から会議があって,仕事始めから仕事をするはめになりましたが)。やっと12日木曜から学部もLSも講義再開です。
 成人の日がずれたことも関係するのでしょうか,小正月という言葉も,あまり聞かなくなりました。15日に特別な意味がなくなってしまったのですね。
 私は成人式には出ていないので,この式にはあまり関心も実感もないのですが,この時代でも,若い女の子が晴れ着を着て歩いているのを見ると,とても良い気分になります。もっとも,夜にバーに行って,晴れ着を着て飲んでいる女の子が見たときには,ちょっと心配になりました。成人の日だから飲酒という点は問題ないのでしょうが,夜中に着物というのが,ちょっと無防備で大丈夫かなと思ってしまいました。
 それはさておき,昨日,平清盛のことをブログで書いたら,ちょうど兵庫県知事が大河ドラマを酷評したということで話題になっていて驚きました。県としては,このドラマに期待するところが大きかったのでしょうね。
 歴史上の人物を使った町おこしというので驚いたのは,昨年,旅行などに出かけたところのあちこちで,坂本龍馬のゆかりの地という表記があったことです。坂本龍馬の人気はいまなおすごいのでしょうが,ちょっと旅行で立ち寄ったくらいで,龍馬ゆかりの地というのは,あまりにも便乗根性が丸出しで笑ってしまいます。もちろん高知県だけは龍馬が土佐藩出身ですから,正真正銘のゆかりの地と言ってよいわけですが,それでも高知龍馬空港という名称にするのは,ちょっとやり過ぎではないでしょうかね。
 

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2012年1月11日 (水)

ひよどりごえ

 NHKの大河ドラマには関心がないのですが,兵庫県は,「平清盛」で盛り上がろうとしているようです。でも,私も含めて,県民はあまり乗っていないですね。大河ドラマは,どこでも町おこしのきっかけにしようと頑張るのですが,そもそも平清盛と兵庫県の関係について,あまり知られていないと思います。清盛は,いっとき,福原遷都を考えて実行しようとしたのですが,その福原というのは神戸にあるのです。現在では,福原というと,性風俗で有名で,女性には近寄りがたいところというイメージなので,これもちょっと平清盛で盛り上がりにくい原因かもしれませんね。
 駅名でいえば,福原は新開地に近く,そこから,神戸電鉄(私の小さいときは,「しんゆう」と読んでいました)が出ています。私たちは祖父母の住んでいた社(やしろ)町に向かうために,終点の粟生(あお)まで乗っていき,そこで加古川線で乗り換えていました。いまは祖父母は鬼籍に入り,神戸電鉄に乗る機会もなくなりましたが,洗練された阪急電車と違い,のどかな電車というイメージでした。
 新開地から出てわりとすぐに,「鵯越」という小さな駅があります。難しい漢字ですが,「ひよどりごえ」です。これが源平の合戦で有名な「一ノ谷の戦い」の「鵯越の逆落とし」のあったところと言われています。源義経が平氏を敗走させるきっかけとなったもので,日本史上に残る果敢な軍事作戦といえるかしれません。切り立った崖の上のようなところから,馬で下って敵陣の不意を突くというものですからね。
 小学生の低学年のころ義経の本を読んでいたこともあり,神戸電鉄で,祖父母の家に行く途中で,鵯越駅を通過するとき,いつも源平の合戦のことを思い出していました。いまとなれば,懐かしい思い出です。

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2012年1月10日 (火)

下井先生の叙勲のお祝い会

 この前の日曜日に,下井隆史先生の叙勲のお祝い会が,先生ご夫妻を招き,神戸北野のフレンチレストランで開かれました。会の発起人として品田充儀先生や柳屋孝安先生にいろいろご尽力くださり,中嶋士元也先生,西村健一郎先生をはじめ,下井先生にゆかりのある方が15名ほど集まって,先生の叙勲をお祝いをしました。神戸労働法研究会でも,年末にプレお祝い会をしましたが,今回はフォーマルな形でのお祝いです。日頃会えない方たちにも会うことができ,貴重な時間を過ごすことができたのも,まさに下井先生の叙勲のおかげです。下井先生には感謝の言葉もありません。
 思えば下井先生の古稀のパーティにお招きいただき,スピーチをしてから,早くも10年が経っています。ついこの前のような気分ですが,あっという間に時が過ぎてしまいました。最近では,あの頃以上に,下井先生とのおつきあいが深くなっていて,ほんとうに有難く思っています。いつまでも先生の謦咳に接しながら,良き薫陶を受け続けることができればと思っています。

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2012年1月 9日 (月)

胎児の世界

 三木成夫『胎児の世界-人類の生命記憶-』(中公新書)を読みました。何年も前に買っていたのですが,机の上で眠っていました。ときどき生物関係の本が読みたくなるのです。この本は不思議な味わいのある本でした。
 私は海の波を聞くのが好きです。思えば,好きな女性との想い出も,海となることが多いです。メリケンパークでかわしたキスを思い出したりすることもあります。それはさておき,私たちの細胞には,生命が誕生したときからの記憶が眠っているというのです。海の音に落ちつくのは,魚であった頃の生命記憶なのです。私たちがずっと受け継いでいるものがあるのです。人類の胎児の顔の変遷をみていくと,まさに人類に辿り着くまでの進化の過程をたどっていることがわかります。受胎32日目は鰓があってサメのような顔貌,受胎34日目は両生類の面影があり,受胎36日目は原始爬虫類,受胎38日目は原始哺乳類,受胎40日目は爬虫類的な形象に人類の面影が出てくる,といった感じです(40日目くらいになると,同じような顔の成人がいそうな感じです)。たった1週間程度に,何億年の進化をとげるというのです。
 本書は,生物のもつ自己の生存保存本能と種の保存本能についても触れています。人は食べて生存しようとし,生殖により種を残そうとします。動物も植物も,食の相と性の相が分かれているのに,人間の特徴は両者が別れていない点です。生きるということ,セックスをするということは,どういうことなのか,ということも考えさせてくれます。
 新書とはいえ,素人にはやや難しいところもないわけではありませんが,たまにはこのような本を読むのもよいものです。 ☆☆☆☆

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2012年1月 8日 (日)

給付付き税額控除と人権

 政府・与党が社会保障と税の一体改革大綱素案を出したと報道されました。消費税の引き上げが中心ですが,それにともなう低所得者対策として,「給付付き税額控除」の導入が挙げられています。ついに来たか,という感じですが,時期は2015年1月に社会保障・税共通番号制度が導入されたときから,とされています。ただ,この共通番号制(国民総背番号制などとも言われてきました)には,いろいろ問題があると言われてきました。政府が国民の個人情報を一元管理するということで,プライバシー侵害の危険があるからです。確かに,「給付付き税額控除」は,所得保障政策としては,就労のインセンティブを阻害しない所得保障としてすぐれたものと言われています。最低賃金制度などによって所得保障をするよりも,こちらのほうがよっぽどよいし,生活保護よりもすぐれていると言われています。このことは,以前にこのブログでも紹介した,神大の法経連携プロジェクトのシンポジウムでの検討成果でもあります。ただ,そこで留保されたことの一つは,「給付付き税額控除」は,国民の所得を政府が完全に把握する必要があり,そのために国民に番号を振るという制度とセットになっていて,これのもつプライバシーへの負の影響についてです。
 「給付付き税額控除」は,財界も政府も与党も,「行け行けゴーゴー」であり,国民総背番号制の問題点は忘れ去られる危険性があるので,ここはあえてこれを検討課題として忘れるなと指摘しておく必要があります。法律家というのは,政府の権力をきちんと縛っておかなければ,国民の人権を侵害する危険性があるという視点で,ものを考える傾向にあります(労働法はちょっと違うのですが)。憲法というのが,そもそも,そういうものなのです。国民のプライバシーの領域に政府が侵入してきそうな場合には,多少過剰に反応して,警鐘を鳴らすというのが,法律家の使命だとも思えます。法的には,国民総背番号制は違憲かというような論じ方になるのでしょうが,そこまで行かず,立法裁量で,民主的な過程での判断に任せるとしても,まずは国民が政府にこのような立法をすることを任せてよいのかを,きちんと考えておく必要があります。
 人権というのは,いろいろなところで言われますが,最もコアな部分は,対公権力関係での国民の自由です。かつては表現の自由が重要性でしたが,今日では,対公権力での私的領域の自由が,重要性をもっていると思います。このことを忘れるなというのが歴史の教訓です。「給付付き税額控除」は,適切に運営されると,公平で効率的な制度となると思いますが,そう安易に認めてもいけないのではないかと思います。
 

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2012年1月 7日 (土)

年賀状

  今年こそ年賀状を出すのを止めようと思いながら,結局,年末に出しました。みなさん,ご多忙のなか,年賀状をいただき,ありがとうございました。私も29~31日にかけて,なんとか時間をみつけて書きました。それなのに,自分の出した年賀状のうち数枚が戻ってきて,ちょっとショックでした。住所を間違っていたということです。転送されなかったというのは,1年以上経っているからで,それは住所ソフトに転居情報を入れ忘れて,ずいぶん時間が経っていたということです。住所変更は大変です。こうやって年賀状が戻ってくれば,ソフトに入れ直すわけですが,そういうことでもなければ,なかなか住所情報をアップデートするのは不可能です。おそらく転居通知は来ているのでしょうが,私の場合,そういうことの管理がずさんで,結局,転居前の住所に出してしまうということがよくあるのです。年賀状が戻ってくると,とてもがっかりした気持ちになり,再送する気にはなりませんね。
 この人に年賀状を出すのは,そろそろ止めようかと思うときの決断が難しいです。いちおう,前年に来なかった人や,明らかにこちらが出してから返事をくれたような人については,出さないようにはしています。送るとかえって迷惑かもしれないので。逆に,前年,返事を出しそびれた人には,こちらから送るというようなこともしています。でも,できるだけ絞り込まなければ時間がなくなってしまうので,やっぱり不義理をしてしまった人が何人か今年も出てきました。
 メールで新年のあいさつをする人もいるので,私もこのパターンでいこうかと思って,たしかそう宣言したこともあったのですが,実行できていません。あるいはブログで新年の挨拶をすることで,すませてしまおうかなという気もしています。印刷しただけで,何も内容のない年賀状は,もらってもあまり意味がないような気もしています。とはいえ,昔の友達で年賀状でしかやりとりしていないような人,お世話になった恩師や先輩というのは,とにかく年賀状をやりとりすることに意味があるので,やはり例外的に出し続けなければならないかもしれません。ただ,そうやって例外を作ってしまうと,この人も,この人も,ということになってしまいます。また献本で本をいただいたときの礼状を,年賀状で書いてしまうということも,少なからずあります(これは,ちょっと横着で失礼なことなのですが)。などとなると,やはり考え込んでしまいますね。
 ところで最近,喪中の葉書を受け取ることが増えています。12月というと,喪中葉書というイメージもあります。自分の交友関係にある者が高齢化していているからかもしれません。若い頃は,その人の祖母関係の喪中,いま多いのは,その人の父母の喪中,そして,あと10年もすると,本人の死亡通知ということになっていくのかもしれません。寂しいですが,これも年を取ってくると避けられないことなのでしょう。

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2012年1月 6日 (金)

筒美京平

 お正月のテレビで,筒美京平の特集がありましたが,面白い内容でした。私たちの世代は,筒美サウンドに完全にひたされている感じです。懐かしい曲で,口ずさみながら,歌詞もすらすら言えるようなものは,だいたい作曲は筒美京平です。地味ですが,日本の歌謡史に残る大作曲家でしょう。この特集をみて,筒美京平が,単なる作曲家であるだけでなく,すぐれたプロデューサーであることがわかりました。あるタレントに,どのような曲を歌わせれば,売り出せるか,という視点で曲を書いていたのです。
 特に興味深かったのは,郷ひろみのデビュー曲の「男の子,女の子」です。郷ひろみが,インタビューで,最初はこの曲のリズムがとれなかったと言っていました。私たちは,この曲を初めて聴いたのは小学生ですから,すらすら歌えたのですが,よく分析すると,これは変わった曲でした。ピアノを習う子が最初にやるリズム練習でいうと,この曲の出だしはこうなります。
 1 タタタタ・タタタタ・タンタン・タンタン
 2 タタタタ・タタタタ・タンタン・タタタタ 
 3 タンタン・タタタタ・タンタン・タンタタ
 
 1が「君たち女の子」
 2が「僕たち男の子,ヘイヘイヘイ」
 3が「ヘイヘイヘイ,おい」
とつながっていくのですが,1の入り方が,いきなり慌ただしい感じで入って,すぐにちょっとゆっくりして,また2でそれが繰り返されますが,2の後半で1とはリズムが変わり,3でそれが継続される,というような感じです。「タタタタ」の位置が変わっているのです。私は素人なので,分析が的を射ているかどうかわかりませんが,とにかく,いま初めてこの曲を聴いて歌え,と言われたら,無理かもしれませんね。
 また,「ヘイヘイヘイ,ヘイヘイヘイ,おいで遊ぼう」は,ここで盛り上がっていき,ちょっと懐かしいような(西郷輝彦や舟木一夫などの初代の御三家の歌いそうな)メロディラインとなります。これを,典型的なアイドル風で,変わった声をしていた郷ひろみに歌わせたというところが,面白いところだったのでしょう。
 郷ひろみと筒美京平というと,「よろしく哀愁」という名曲もあります(このブログでも書いたことがありましたっけ?)。マイナーの曲なので,ハデではありませが,いまでも口ずさむ歌で,歌詞もいいのですが,こういう曲を郷ひろみが歌っているところも面白いです。ここも「会えない時間が,愛育てるのさ,目をつぶれば君がいる」というところで,メロディが徐々に盛り上がっていきサビに至るところが,とても印象的で心を込めることができるようになっており,そして,その後の「友達と恋人の境を決めた以上」では,冷静な歌詞にあうように,出だしのメロディーに戻るのです。私から誉められても嬉しくないでしょうが,みごとなコンビネーションです。
 もう一つ,素人的分析を。近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」ですが,これを最初に聴いたときは,変な曲だなあと思いした。イントロがちょっとハデな感じで,それから歌の出だしの「覚めたしぐさで熱く見ろ,涙残して笑いなよ」は,C調でいくと,ずっとamなのです。コード的には単純すぎるのですが,そこに音をいっぱい乗せています。amですから,ラ,ド,ミがベースのはずですが,そこに他の音も入っているのであり,私の感覚では,漫談のギター奏者が単純なコード進行で演奏しながら,いろいろな音で言葉をあてはめるというのに似た感じなのです。
ところが,これがかえってインパクトがあったのでしょう。マッチは歌は下手でしたが,元気はありました。単純な曲を,アレンジでハデにして,またマッチという絶頂のアイドルの勢いのままに歌わせたというところが,すごい企画だったのでしょうね。
 こんなふうにみていくと,筒美京平の曲には,ほかにもいろんな仕掛けがいっぱいあるような気がします。皆さんも,いろいろ勝手に想像して楽しんでみればどうでしょうか。

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2012年1月 5日 (木)

「非正規」をなくす方法

 かなり前にいただいていた,中村和雄・脇田滋『「非正規」をなくす方法』(新日本出版社)を読みました。ご恵贈いただき,どうもありがとうございました。帯に書かれている「法と運動の力」で「非正規」をなくすということですが,私の立場からは,運動はともかく,法はどうか,というところです。確かに,この本は,「非正規」の実態を示すエピソードや裁判の実例を豊富に取り上げて,「非正規」と呼ばれる雇用がいかに社会的に不正なものであるかを,これでもかと描き出しています。記述はわかりやすく,それなりに説得力があります。もっとも,私のスタンスは,非正社員たちの雇用の現状が社会的に不正義であるかどうかは,そう簡単には判断できないというものです。それはともかく,本書で面白かったのは,公契約のところです。税金を投入している事業を受注した企業は,従業員に適正な労働条件を保障しなければならないという,公契約条例の話です。私は,こういう規制には反対ではありません。受注するかどうかは企業の自由であり,受注する以上は,一定の労働条件を従業員に保障せよと求めるのは,自由の侵害という面が少ないからです。イタリア語では,こういうのは,「義務(obbligo)」とは区別して,「負担(onere)」といいます。負担は,一定の利益を得るための条件ともいえるので,利益をともなわない義務とは区別されるのです。こうした手法で,労働条件の改善を図っていくのは望ましいことといえるでしょう。
 本書では,外国の例として,デンマークと韓国だけがあげられていますが,ここはちょっと違和感がありました。脇田先生は韓国のことを以前から研究されていることは知っていましたし,デンマークは「フレクシキュリティ」で騒がれているので調査に行かれたそうですが,これらの国から日本がどれだけのことを学べるかはちょっと疑問でした。韓国は非正規問題に取り組んでいるので,参考になるところはあるかもしれませんが,デンマークでは,非正規を保護するという政策よりも,労働市場を活用した保護の在り方を模索するという点で市場オリエンテッドな政策が取られているという面もあり,そうなると著者たちが目指している方向と同じなのだろうか,という疑問も残りましたが,私の理解不足があるかもしれません。
 それはさておき,お二人の先生とも,「非正規」問題に真剣に取り組むという姿勢には強く共感するものです。私が考えている処方箋は全く違うものですが,立場は違うとは言え,こういう本を世に出して問うていく意味はあると思います。

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2012年1月 3日 (火)

駅伝と高校サッカー

 今日で冬休みが終わりということで,ほんとうに久しぶりに大きな本屋に行ってきました。どんな本が売れているのか見てみたいと思ったからです。書店で一押しであった本を買ってきましたが,何でしょうね。そのうちにこのブログで紹介しますので,楽しみにしてください。ついでに自分の本が置いてあるかと思い,新書コーナーに行くと,新潮新書の本はなくちょっとがっかりでした(売れていたのでしょうか)。労働法のコーナーに行くと,昨年に出した本はどれも置いてありましたが,変な分類のところで置かれていましたね。まあ仕方ないです。移動させようかと思いましたが,不信人物と思われたらイヤなので,そのままにしておきました。
 それはさておき,お正月といえば駅伝です。ただ今年はあまり集中せず,箱根駅伝を見ていました。東洋大の圧勝でしたね。復路は逆転の可能性がほぼゼロだったので,面白くなかったです。2位争いは熾烈でしたが。また,最近では,シード権争いが盛り上がるのですが,今年は10位と11位の差が途中で開いてしまったので,ここも盛り上がりに欠けました。テレビ局的には残念だったかもしれませんね。
 それにしても,ここまで完璧な優勝というのは最近では珍しいのではないでしょうか。4区が終わったところで勝負は終わっていました。山の神は,今年もすごかったです。柏原は箱根の歴史に残る選手になりましたね。復路も,油断せず,4人が区間賞ですから,他校はどうしようもありません。強すぎました。昨年3冠の早大は,4位に終わり,今シーズンは無冠でした。駅伝はちょっとリズムが崩れるとなかなか挽回できませんね。駒大は,見せ場はほとんどなかったですが,きっちり2位に入っているのはさすがです。平成の駅伝王者は健在と思いました。東洋大は,柏原がいなくなったらどうなるのかという気もしますが,メンバーを見ると,来年のことも考えた布陣のようであり,ひょっとすると東洋大の黄金時代が来るのかもしれません。
 それから,駅伝ほど興味はもっていなかったというか,まったくノーケアだったのですが,第90回全国高校サッカー選手権大会がたいへんなことになっています。私の家のすぐ近くにある市立西宮が快進撃をしているのです。略称「いちにし」は,新聞では県内屈指の進学校と紹介されていますが,私の高校生のころの30年以上前はそうでなかったので,最近は変わったのでしょうか。ちなみに私は別の国立高校に進学しましたが,中学の友達の多くは「いちにし」に行っており,この高校にはとても親近感をもっています。高校野球では,甲子園の入場行進のときのプラカードをもつのは,市立西宮の女子高校生というので有名であった高校です。いまもそうでしょうかね。サッカーの話の戻ると,県予選で,昨年の全国優勝の滝川第二を準決勝で破り,全国大会に入っても前々回大会優勝の山梨学院付属をも撃破,ついに今日は近大附属をPK戦で撃破。準々決勝(ベスト8)進出です。次は大分戦。どうなるか,楽しみですね。 

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ジェントルマン

 お正月に,山田詠美『ジェントルマン』(講談社)を読みました。完全無欠のジェントルマンである漱太郎の隠された本性。それを知った夢生は,漱太郎の奴隷になってしまいます。漱太郎は,この世の偽善を知り尽くし,それをあざわらいながら,外見上は,その偽善にどっぷりつかって良い人を演じ続けますが,夢生が見た彼の本性は,この世の規範から逸脱しきった背徳の極みだったのです。夢生は,男性しか愛せない同性愛者であり,異性愛者である漱太郎には片思いです。漱太郎は,そんな夢生を,絶対に自分を裏切らない者として信頼します。そのことに夢生は無上の喜びを感じます。自分は,他の誰にも見せない漱太郎の素顔を知っているということからくる絆というものを感じるからでしょうか。一方,夢生には,異性の圭子という友達もいますが,この二人は堅い友情関係で結ばれています。しかし,友情は裏切ることが可能なものなのであり絶対的なものでありません。漱太郎は,夢生は裏切るとか裏切らないとかの範疇を超えている存在なのでしょう。
 ここには性的な関係で結ばれていないのに離れられない漱太郎と夢生,夢生と圭子という不思議な関係があります。一方で,夢生は,自分よりも若いシゲとは性的な関係を結んでいます。このシゲは男性だけでなく,女性も愛せます。シゲは,漱太郎の妹に本気で恋に落ちてしまいます。このこそがまとまな恋なのでしょうが,本書では,こういう恋がすべてなのではなく,人間と人間との間にはいろんなタイプの深く結びあえる関係があるということが描かれています。
 漱太郎の犯罪を知る夢生は,かつて漱太郎にレイプされた女性が何十年も経って,その犯罪を糾弾しようと動き始めていることを知ります。二人だけの秘密に,それが暴かれる危険が迫っています。夢生は最後に,漱太郎がときどきやってきて二人だけで過ごした部屋を,漱太郎の懺悔室から処刑室に変えてしまいます。他人に裁かれるくらいなら,自分で裁いてしまいたいということでしょう。
 不思議な性と恋の世界が描かれています。好き嫌いはあるでしょうが,私は好きなほうです。
☆☆☆

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2012年1月 1日 (日)

辻井伸行

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。新年のブログは音楽の話から始めましょう。

前にも書いたことがあるかもしれませんが,この方を紹介するのに,もう「盲目の」というような言葉はもはや不要です。盲目なのに頑張っているというような次元ではありません。神に祝福されたピアニストです(私は神を信じているわけではありませんが)。私たちの生きている時代に,日本人として,このような素晴らしいピアニストの演奏を生で聴けることの幸せを感謝しなければならないと思います。辻井さんの演奏は,プロとしての技術は当然ですが,優しさにあふれています。その優しさと情感にあふれるピアノが,聴衆の心を打ちます。私も一度だけ,コンサートで聴いたことがあります。そこでは,モーツァルトのピアノソナタ第11番イ長調(トルコ行進曲付き)を弾いてくれました。ご存じのように,第3楽章が有名な「トルコ行進曲(Rondo alla turca)」で,ピアノの練習曲としても有名ですが,辻井さんが弾くとまったく違う曲のように大迫力で,これまた感動ものでした。
 私の手元には,「マイ・フェイバリット・ショパン」と,ムソルグスキーの曲が中心の「展開会の絵」をCDがありますが,どちらも研究室やIpodでよく聴いています。「展覧会の絵」も情景が浮かぶような,ゆったりしたリズムで演奏されます。辻井さんは目ではなく,心のなかでイメージをとらえて,それを繊細にピアノで演奏する技術をもっているのでしょう。
 年末のテレビ番組では,ちょうどカーネギーホールでの演奏風景を紹介していました。このライブCDも来年には出るそうで,いまから楽しみです。
 まだ23歳です。最近では,作曲もしています。私が行ったコンサートでは,自作の曲をアンコールで3曲弾いてくれました。演奏家と作曲家としてのこれから活躍が楽しみです。

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